う~ん

つむぐ

2007年02月02日 09:56

私がお気に入りのブログに次のような書き込みがされてありました。
今の日本の姿を直視しているもので、考えさせられました。

追いかけられている日常に埋没してはダメだという警鐘だと思います。


ファシズムとは何か? 先日辺見庸の講演会に参加して再び考えさせられた。辺見さんは、日本における戦前のファシズムも、決して強制的なものではなかったのではないかという。そのことは辺見さんの著書でも述べられていた。私たちがファシズムと聞くと、それは国家からの強制的なもののように感じるが果たしてそうなのだろうか?

 ヒトラーも羨むファシズム国家、全体主義国家と呼ばれた国がある。第二次世界大戦前の日本である。あの頃の日本も国の借金が国内総生産(GDP)の1.5倍となり、経済は完全に崩壊していた。今の日本の借金も同水準まであがっている。経済は崩壊して、世の中は絶望感に覆われ、明るいニュースはどこにもない。人々は毎日忙しく働き、物事を考える時間もない。人は皆自身を失い卑屈になる。そして自信を無くした人が傷つかないように、相手を傷つけないように薄い皮膜をはって生きる。皮膜をはることで思考停止する、無関心になる。それが今も昔も変わらない日本型ファシズム国家の熟成の仕方なのではないだろうか?

 マルクスは「すべての社会問題の根源はすべて経済を土台に成り立つ」と喝破した。まさにその通りであろう。日本は経済が破綻した。破綻した後、上辺社会となり、皆必死で偽りの自分を演出する。弱い自分を相手に見せないようにする。そのことで内側のストレスが溜まり、時に爆発する。弱い人間はそうやって強い国家に自らを委ねる。強い国家に憧れる。社会の底辺に追い込まれて本来怒るべき立場の人間が保守層を支えている。マスメディアも絶望ばかり報道しても社会が暗くなるので、明るいニュースを演出して報道する。それは時に国家から提供される。提供された情報を吟味することさえできないくらいに社会は忙しい。

 上述したようなことがファシズムであり、それは決して国家からの強制的なものではなく、むしろ弱く自信を失った人々が自主的に束ねられることを望む社会なのだろうと最近は思っている。共謀罪という法律を制定するまでもなく、日本はすでに自分の意見が言いにくい、相手と議論などできない時代となった。友人関係でもそうである。自分の意見をぶつけると突然切れて攻撃的になる若者が増えている。こちらも不快な思いはしたくないから意見を言わなくなる。そして上辺だけのつき合いとなる。上辺だけの薄い皮膜をはった社会、これが国家と連動したときファシズムとなるのであろう。この事実だけ見ても日本は危険水域をすでに越えたと言えるだろう。ファシズムとは決して強制的なものではないということを今この実存時間で実感している。