自分史1=新聞配達その1

2009年01月09日


23年間の新聞配達 【その1】


 私は17歳から39歳までの23年間、新聞販売店で働いていた。
 17歳と言えば1971年、まだ70年安保闘争の「残り香」で騒然としていた頃だった。
 なぜ私が、新聞配達の現場に足を踏み入れたのかを少し触れてみたいと思う。



 その前に、私には生まれつきの「持病」がある。
 「心室中隔欠損症」といって、俗に言う「心臓に穴が空いている。
 心臓弁膜症というヤツである。
 幼い頃、私の唇が頻繁に紫色に変色するために、心配になった親が大学病院に連れて行き、検査の結果、そこで初めて「持病」を知った。幼いとはいえ、その時の親と医師の会話を耳に入れてしまったのは残酷だった。



 曰く、「お子さんの寿命は、このまま放置すれば40代半ばまでです。手術を勧めます」と。



 この言葉がそれからの私の生き方を引きずっていくことになったことは言うまでもない。
 そして親が下した判断は「100万円もする手術費用なんてない。だから手術はしない。生きたいようにさせてやる」だった。



 小学校五年の二学期からは、持病の心臓病に伴う合併症(敗血症)を患い、ろくに学校にも行けず、中学校は一学年が3分の1,二学年が半分、通院治療のために登校できなかった。
 「留年してはどうか」という学校側のアドバイスもあった。
小学校(伊勢・鳥羽)も中学校(東京)も、修学旅行には行けずじまいであった。



 高校は何とか入学したが、わずか一週間で父親が病で倒れ、それまで勤務していた会社を退職。
 脱サラしてはじめた家業の牛乳販売店を、若干15歳の子どもが継いでいかなければならなくなった。
 当然、入学したばかりの高校を一ヶ月で中退。
 しかし、牛乳配達だけでは家計が苦しくなるのは目に見えていて、同じ朝早く起きるならと、しばらく新聞配達の仕事も同時にこなしていくことになった。
 だが、新聞と牛乳の兼業も長続きせず、牛乳販売店は廃業し、新聞販売店の専業員一本になった。



 それまでは、「新聞なんて、朝起きたらポストに届けられている」くらいにしか頭になかった。
 それを配っている人がどんな環境で仕事をしているのかなんて考えもしなかった。
 まあ、それがあたりまえと言えばあたりまえだが・・・。


 (つづく)




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