気づかない差別
2009年12月24日
この人一人のために休日にするなんて、おかしくないですか。
百歩譲って、この人の連れ合いさんはなぜ休日にならないのですか。
この人たち一家を人以上にまつりあげている人たちの意識の中には、女性差別が当たり前になっているんでしょうね。
気づかない差別意識って、怖いですよね。
とりわけ、差別はしない、させない、許さないを合い言葉にして取り組んでいる人たちがこの問題に無頓着なのはどうしてなんだろうか。
また、この人たち一家にまつわる休日は「他の休日」みたいに日を移動しないのはなぜなんだろうと考えたことありますか。
Posted by つむぐ at 20:25│Comments(6)
この記事へのコメント
そうなんです。
ボクも未だに王制の国だと感じています。
ボクも未だに王制の国だと感じています。
Posted by MOMO-TARO at 2009年12月24日 20:28
部落差別や女性差別などを本気でなくそうとするなら天皇(天皇制)を支える社会の仕組みにメスを入れないとダメだと思いますが。
でも、こんなことを書くとまたあの人が「不敬罪だ」とかなんとか騒ぐだろうな。
人を差別する人は自分も差別されていることに気がつかないんでしょうね。
でも、こんなことを書くとまたあの人が「不敬罪だ」とかなんとか騒ぐだろうな。
人を差別する人は自分も差別されていることに気がつかないんでしょうね。
Posted by つむぐ at 2009年12月24日 20:59
皇族の人権や人生という点からも、この制度を見ていく必要もあるし、なによりも人を一定の鋳型にはめて制度を作って、それを利用しようとする輩があるということが問題だと思います。どちらが「不敬罪」なんでしょうね。
日本にタブーなく、議論ができることが大切だと思います。
日本にタブーなく、議論ができることが大切だと思います。
Posted by 夢想花
at 2010年01月01日 17:45

夢想花さん
コメントありがとうございます。
ところで、皇族の人権ってなんでしょうか?
それを強調すると強欲な大資本家の人権も保障しなければならなくなってきませんか?
コメントありがとうございます。
ところで、皇族の人権ってなんでしょうか?
それを強調すると強欲な大資本家の人権も保障しなければならなくなってきませんか?
Posted by つむぐ
at 2010年01月02日 22:45

お早うございます。
皇族は、そこに生まれた、という点では、自分で責任を取りようがない。成人して、自ら皇籍を離脱することはあるとは言え・・・。
それに対して、資本家は自らの意思で、そこに就いていくのではないでしょうか? もちろん、世襲ということがあったにせよ、それでも、自分の責任が大きい。
また、例え、強欲資本家と雖も、市民としての人権は保障されるべきです。
資本家として、その金力を利用した結果や行為については、責任を問われ、社会的に指弾されることはあるでしょうが、市民としての人権は保障されるべきだと思います。
皇族は、そこに生まれた、という点では、自分で責任を取りようがない。成人して、自ら皇籍を離脱することはあるとは言え・・・。
それに対して、資本家は自らの意思で、そこに就いていくのではないでしょうか? もちろん、世襲ということがあったにせよ、それでも、自分の責任が大きい。
また、例え、強欲資本家と雖も、市民としての人権は保障されるべきです。
資本家として、その金力を利用した結果や行為については、責任を問われ、社会的に指弾されることはあるでしょうが、市民としての人権は保障されるべきだと思います。
Posted by 夢想花
at 2010年01月03日 08:08

よく「違いは違いとして認めて、共通項を見つけてやっていきましょう」なんて、一般的に言われたりしますが、支配=被支配、抑圧=被抑圧、加差別=被差別の枠を見ようとせず、お互いの立場、違いを認め、共通項を探り、見つけ、いっしょにやりましょうなんて言うのは、個人的にはおかしいと思っています。
まずやらなければならないことは、支配、抑圧、差別の側にいる人間が、被支配、被抑圧、被差別の側からの鋭い批判、指摘、糾弾を我が者として受け止め、自分が生きてきた歴史を振り返り、出来るだけ支配、抑圧、差別の側に立たない、ともに支配=被支配、抑圧=被抑圧、加差別=被差別という関係を打ち破っていくのかが問われているのだと思います。
琉球民族に対して日本民族が何をやってきたのか、アイヌ民族に対して日本民族が何をやってきたのか、朝鮮民族に対して何をやってきたのかを問うことなしに、違いは違いとして認め、共通項を拡げていくなんて、チョット間違っているのではと感じています。
琉球王国をつぶしたのは、われわれ「日本人」とその支配者であり、その歴史的事実に今も何も「異」を唱えない私たちではないのでしょうか。基地を押しつけ、そこから派生するさまざまな人権侵害に対して怒りの声を上げない私たちが問われているのではないでしょうか。
アイヌ民族の生存権、狩猟権を奪ってきたのは「日本人」であり、われわれ滋賀に住む人たちではなかったのでしょうか。
強制連行されてきた韓国・朝鮮人の歴史をみることなく、朝鮮学校の子どもたちに「朝鮮人は朝鮮に帰れ」「スパイは帰れ」などと襲撃を加える輩に対して、何も抗議しない私たちが問われているのではないのでしょうか。
どうでしょうか。
きついですか。飛躍していますか。
まずやらなければならないことは、支配、抑圧、差別の側にいる人間が、被支配、被抑圧、被差別の側からの鋭い批判、指摘、糾弾を我が者として受け止め、自分が生きてきた歴史を振り返り、出来るだけ支配、抑圧、差別の側に立たない、ともに支配=被支配、抑圧=被抑圧、加差別=被差別という関係を打ち破っていくのかが問われているのだと思います。
琉球民族に対して日本民族が何をやってきたのか、アイヌ民族に対して日本民族が何をやってきたのか、朝鮮民族に対して何をやってきたのかを問うことなしに、違いは違いとして認め、共通項を拡げていくなんて、チョット間違っているのではと感じています。
琉球王国をつぶしたのは、われわれ「日本人」とその支配者であり、その歴史的事実に今も何も「異」を唱えない私たちではないのでしょうか。基地を押しつけ、そこから派生するさまざまな人権侵害に対して怒りの声を上げない私たちが問われているのではないでしょうか。
アイヌ民族の生存権、狩猟権を奪ってきたのは「日本人」であり、われわれ滋賀に住む人たちではなかったのでしょうか。
強制連行されてきた韓国・朝鮮人の歴史をみることなく、朝鮮学校の子どもたちに「朝鮮人は朝鮮に帰れ」「スパイは帰れ」などと襲撃を加える輩に対して、何も抗議しない私たちが問われているのではないのでしょうか。
どうでしょうか。
きついですか。飛躍していますか。
Posted by つむぐ
at 2010年01月03日 13:30

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