許さない!
「宮古島の悪魔祓い」
2008年02月11日
最近、といってもつい3日前から読み始めていた「宮古島の悪魔祓い」(和久峻三・作)という推理小説。
今日、読み終えました。やっと。けっこう、大作でした。480頁もあったし。
その作品の中で出てくる次の箇所に引きつけられました。
琉球・沖縄をどのように見るのか、見ているのかを次の言葉で何となく言い切っているようでした。
「いやいや、とんでもない。沖縄諸島というのは、小さな島がいくつも寄り集まってできている関係で、距離的には、そうも遠くないのに、地政学的にというか、文化的にというか、いまだに隔絶されたままの一面があるんですよ。それが端的にあらわれているのは、言葉の問題です。例えば『いらっしゃいませ』とか『ようこそ』とかいう挨拶の言葉を例にとると、宮古島では『ンミャーチ』ですが、飛行機で30分の石垣島では『オーリトーリ』となります。これがですよ、石垣島からやはり飛行機で30分の与那国島では『ワーリー』となるんです。沖縄本島だと、『メンソーレ』と言います。」
「本土では東京で使う言葉が標準語ということになっていますよね。そして関西弁や東北弁は方言だと・・・しかし、沖縄諸島では、方言なんていう観念はないんです。それぞれの島に、それぞれ特有の言葉が伝わり、独特の文化圏を形成しています。沖縄本島で使う言葉が標準語だなんて観念もありませんしね。だいいち、宮古島の人たちは、沖縄本島のことを『オキナワ』とは呼びますが、本島とは言いません。つまり、『沖縄本島』という呼び方は、本土の人々が使う言葉であって、宮古島の人たちにとっては慣用語ではないわけです」
昨年2月、人権の大切さを訴えるステージで
「アイヌの人たちの言葉もオキナワの人たちの言葉も日本の方言」だと言い放ってしまった三線サークルの代表者。
この方にとっては、アイヌ民族も琉球民族も日本にはいない。だから、それぞれの民族の言葉や文化、歴史、生活など、なーんにも考えられないんでしょうね。
ヤマトゥやシャモが民族の大地、島々を侵略し、支配し、それまで脈々と受け継がれていた民族の言葉、文化、伝統、風俗など民族の誇りを奪ってきたのは隠しようのない事実です。しかし、その事実を否定するだけでなく、人権のステージで再び奪ってしまったことに気がついていないようです。
私たちが琉球・沖縄を見るとき、一つの観光地としてみるのもいいでしょう。
しかし、琉球・沖縄がたどってきた歴史を少しだけでもいいから、頭の片隅に入れておくことが大事ですよね。
「数年前、慶良間に行き、本当にきれいなビーチで泳いだ後、帰りのフェリーに乗る前、地元の人が私にこんなことを話してくれました。『あなたたちが泳いでいたビーチは戦争の時、流れた血で真っ赤だったんですよ』と」。と先日、職場の人が話してくれました。
そうなんですよね。
自然がいっぱいの、沖縄の海の中を潜って探索するのは気持ちいいだろうと思いますが、その海に帰りの燃料も持たずにアメリカの艦船につっこんでいった、若い兵士たちが亡くなったところだということを、片隅に入れておかないとだめなんじゃないでしょうか。
『宮古島の悪魔祓い」には、他に人頭税のことなんかも文章になっているし、意外とヒットでした。私的には。
タグ :沖縄
Posted by つむぐ at
19:29
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