素直に喜びたい・・・・が
2008年06月07日
昨日、アイヌ民族が日本の先住民族だということが国会で決議されました。
決議の中には「差別され、貧窮を余儀なくされた歴史的事実を厳粛に受け止め」との一文もあります。
それにしても、遅いです。
わずか11年前までアイヌ民族を「旧土人保護法」という差別政策の下に縛りつけておいた政府の責任はもっと明らかにするべきだと思います。そして、それは同時に、「旧土人保護法」の撤廃のために何もしなかった私たち、あるいはそんな差別的な法律があることすら知らなかった和人自身が責任をとらなければならないことだと思います。
しかも、現在進行形で、「アイヌ史資料集」という差別図書がでまわっていて、アイヌの人たちが図書の回収と著者・河野本道の謝罪を求め続けています。
この差別図書は、アイヌの人たちがどのような病気でなくなったのかという病歴・死因を本人に承諾もなしに資料として集め、無断で販売したものです。
皆さんのおじいさんやおばあさん、ひいおじいさんやひいおばあさんの名前が実名で載り、どんな病気でなくなったのか、しかもその病気は固有の伝染病だというありもしないデマを書き並べて本になって売られていたら、どう思いますか。
「部落地名総鑑」・・・被差別部落(同和地区)の住所はそこに住んでいる一人一人の思想信条まで調べ上げた本が売られ、それを採用選考などに使っていたとして、県内の大手の企業も指摘され、問題になっていますが、これのアイヌ民族版ともいうべき、卑劣な差別図書が出回っているのです。許せないことです。
アイヌと滋賀県。関係が意外と深いことにもびっくりです。
「滋賀県の歴史」(山川出版社)の中には次のような記述があります。
寛永二(1625)年ころ、・・・・・・(略)。
これより以前、波濤をこえ、船を北へむけた人びとがいる。柳川村(彦根市柳川町)の建部七郎右衛門や八幡の岡田八十次・西川伝右衛門らは、蝦夷地へわたった。当時の蝦夷地は先住民族であるアイヌ民族と松前氏が支配する渡島半島の松前・江差などに和人が生活していた。この蝦夷地には、多くの水産物があり、これを上方へ持ち込めば巨利を得られることはいうまでもない。利を見極めることに機敏な近江商人のうち八幡・柳川(両浜商人)の人たちは稼ぎの場を北にむけた。・・・・(略)。
近江商人の進出は、米作未成立の蝦夷地における松前藩の特殊な知行制度にかかわって成立していった。もちろん、他国の商人たちも進出していたが、近江商人たちは松前藩で信用を獲得することができ、天明六(1786)年の記録では富商17人のうち11人までが近江商人で占められていたとのことである。・・・・(略)。
北海道の主要な都市である函館・小樽・札幌などは近江商人により開かれた、といっても過言ではない。渡島半島の日本海側の町や小樽周辺の町を正月に歩くと京都や滋賀でも少なくなった形の松飾りや軒先や室内にみられる。近江商人がもちこんだ生活習慣がそのまま根付いたものである。しかし、このことが結果として、アイヌ民族固有の伝統文化をとりあげていくことになったことをわれわれは忘れてはならない。
決議の中には「差別され、貧窮を余儀なくされた歴史的事実を厳粛に受け止め」との一文もあります。
それにしても、遅いです。
わずか11年前までアイヌ民族を「旧土人保護法」という差別政策の下に縛りつけておいた政府の責任はもっと明らかにするべきだと思います。そして、それは同時に、「旧土人保護法」の撤廃のために何もしなかった私たち、あるいはそんな差別的な法律があることすら知らなかった和人自身が責任をとらなければならないことだと思います。
しかも、現在進行形で、「アイヌ史資料集」という差別図書がでまわっていて、アイヌの人たちが図書の回収と著者・河野本道の謝罪を求め続けています。
この差別図書は、アイヌの人たちがどのような病気でなくなったのかという病歴・死因を本人に承諾もなしに資料として集め、無断で販売したものです。
皆さんのおじいさんやおばあさん、ひいおじいさんやひいおばあさんの名前が実名で載り、どんな病気でなくなったのか、しかもその病気は固有の伝染病だというありもしないデマを書き並べて本になって売られていたら、どう思いますか。
「部落地名総鑑」・・・被差別部落(同和地区)の住所はそこに住んでいる一人一人の思想信条まで調べ上げた本が売られ、それを採用選考などに使っていたとして、県内の大手の企業も指摘され、問題になっていますが、これのアイヌ民族版ともいうべき、卑劣な差別図書が出回っているのです。許せないことです。
アイヌと滋賀県。関係が意外と深いことにもびっくりです。
「滋賀県の歴史」(山川出版社)の中には次のような記述があります。
寛永二(1625)年ころ、・・・・・・(略)。
これより以前、波濤をこえ、船を北へむけた人びとがいる。柳川村(彦根市柳川町)の建部七郎右衛門や八幡の岡田八十次・西川伝右衛門らは、蝦夷地へわたった。当時の蝦夷地は先住民族であるアイヌ民族と松前氏が支配する渡島半島の松前・江差などに和人が生活していた。この蝦夷地には、多くの水産物があり、これを上方へ持ち込めば巨利を得られることはいうまでもない。利を見極めることに機敏な近江商人のうち八幡・柳川(両浜商人)の人たちは稼ぎの場を北にむけた。・・・・(略)。
近江商人の進出は、米作未成立の蝦夷地における松前藩の特殊な知行制度にかかわって成立していった。もちろん、他国の商人たちも進出していたが、近江商人たちは松前藩で信用を獲得することができ、天明六(1786)年の記録では富商17人のうち11人までが近江商人で占められていたとのことである。・・・・(略)。
北海道の主要な都市である函館・小樽・札幌などは近江商人により開かれた、といっても過言ではない。渡島半島の日本海側の町や小樽周辺の町を正月に歩くと京都や滋賀でも少なくなった形の松飾りや軒先や室内にみられる。近江商人がもちこんだ生活習慣がそのまま根付いたものである。しかし、このことが結果として、アイヌ民族固有の伝統文化をとりあげていくことになったことをわれわれは忘れてはならない。
Posted by つむぐ at
10:10
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