広島。。ヒロシマ。。
2008年08月07日
私が参加した「被爆63年 8・6ヒロシマ集会」では3名の被爆者の方がその当時のことをしぼり出すような思いで語って頂きました。
Hさんは爆心地から1.8kmの場所で被爆し、5mほど爆風で飛ばされた。見上げれば空は真っ黒。太田川の土手に上がったら市内は真っ赤な火の海になっていた。3日目に福島町に戻ったが、右腕にウジが湧いてきた。2ヶ月間動けなかったと話された。
Nさんは思い出せないが当日なぜか学校に行っていた。上級生が下級生を覆い被さって爆風や熱風からかばってくれた。その上級生は全員亡くなった。あと何年生きられるか分からないが、伝えていきたいと話されました。
Iさんは8時13分に警報が解除されたその瞬間、B29の爆音が聞こえ、「ピカッ」と光った。あまりの熱さに顔を覆ったが、飛ばされた。周りは火の海、黒い雨だったと、話されました。
この集会で、広島市内の被差別部落の住民が差別によって疎開先も決まらなかったり、疎開先からも追い返されるという二重の差別を受けていたことを知りました。だけど、当事者の方々は「私たちは被爆したという被害者だけではない。アジアの人たちに対しては軍都広島・呉を支えた一人としての加害者の立場もある」と語っておられました。
沖縄から参加された牧師は「沖縄は基地あるが故に人権すらない被害者であるが、アジアの人たちから一番恐れられていたのは沖縄人だ。真っ先に皇民化教育に従ってしまったから」と。そして「権力者にとって一番都合の良い人間は、もの言わぬ民」であるとも。
「心に思っているだけでは山の奥にいるのと同じ」「体験を経験に向上させていかなければ」と壇上に上がった人からは次々と貴重な言葉が出されていました。
また、1942年2月3日、山口県宇部市床波沖合にあった長生炭鉱が水没して130余名の強制連行された朝鮮人労働者が犠牲になった事件も今回知ることができました。
3年ぶりに訪れた広島で多くの学びがありました。
Posted by つむぐ at
17:30
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