わたしとおかあさん
2008年12月06日
「40代まで生きられるかどうか」。当時幼稚園児ぐらいの私について、父と母はびっくりするような診断結果を阪大病院で聞いていました。小さい時から私は、少し運動しただけで唇が青紫色になるチアノーゼ(血液中の酸素が欠乏した状態)になるなど体が弱く、先天的な「心室中隔欠損症」と診断されたのです。心臓の右心室と左心室を隔てる壁に6#JIS2D40#程度の穴が空いていました。
心臓が悪いから、いつまでもつかわからない。なら本人の好きにさせよう。そんな暗黙の了解が両親にあったのかもしれません。学校は休みがちでしたが、母は無理強いせず、「行きたいなら行ったらいい」という感じでした。ああしろこうしろとは言わず、ある意味で放任。私は子ども心に悪知恵を働かせて、家を出たように見せかけ、物置に隠れていたりしましたけどね。
昭和2(1927)年に生まれ、京都で育った母は、結婚して大津市に移住。長屋の借家暮らしで、父は賭け事好き。生活は楽ではなく、着物や鍋を母と一緒に質屋に持って行ったこともあります。私が中学3年のころ、母は既にリウマチで足を悪くしていましたが、「痛い痛い」と言いながらも、アルバイトに出かけていった姿を覚えています。
父が脱サラして始めた牛乳屋も手伝いながら、母はずっと家を守っていました。母の後ろ姿からは耐える力や怒る力を教えてもらった気がします。私自身は病気のこともあり、19歳で家を出て無茶をした時期もありました。でも、学生運動が盛んな時代、親という“権力”への反抗心があった一方で、「死ぬまでに親に孫を見せたい」などとも思っていました。
母は約20年前に亡くなりましたが、最期のおぼろげな意識の中、涙を一筋流して「ごめんな」と言っていたことが忘れられません。月並みですが、今思うと、もっと話したかった。06年7月からブログを始めましたが、独立して疎遠になっている私の子どもらに、話さなくても親父が何をしているか知ってもらえるよう、との思いもありました。
もう私も50代半ば。この先何が起こるかわかりませんが、母の最期の言葉の意味を探していきたいと思っています。
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懇意にしている記者さんの取材を4日に受け、今朝、紙面に反映されました。
【感想】
うまくまとめてるなあ。つれあいは感心していました。記者さんのまとめ方に。
Posted by つむぐ at
21:19
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ちと、はずかしい
2008年12月06日
知り合いの何人かから声をかけられました。
『新聞見ました。びっくりしました』(Nさん)
『いつもあんたとしゃべってるけど、あんな生い立ちなんて聞いたことなかったから驚いてまんねん』(Kさん)と。
今朝の毎日新聞19面『わたしのおかあさん』。
Posted by つむぐ at
15:37
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