また訃報が!
2010年10月20日
これで何人目なのか!
今日また、訃報が届いた。
一度しかお会いしていない方でしたが、肝臓病市民公開講座に出席され、その際に患者会に入会されていました。
肝炎対策の充実を早急に!
Posted by つむぐ at
16:19
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レーニン、タンペレ、フィンランド
2010年10月20日

「フィンランドの旅」2006/8より転載です。
タンペレの「レーニン」
フィンランドの独立時には労働運動の勢力が大きかったことが大使館の観光冊子に書いてあった。ヘルシンキ市街にいてもその状況は見えてこない。工業都市タンペレには労働者住宅が博物館になり、レーニン博物館もあるというので、タンペレに行くことにした。1905年・1917年関連の情報もそこにいけば何かつかめるかもしれないと思ったからである。
タンペレまで急行で約2時間である。
タンペレは織物工場の跡地や旧労働者街が再開発されて観光地になり、芸術をテーマに観光都市化もすすんでいるが、地図を見ると南部には多くの工場がある。駅の東にはロシア風の古い教会があり、川を越えて少し歩くと「レーニン博物館」がタンペレ労働者会館の3階にあった。建物の外側には労働者像やハンマーも持つ手のレリーフなどがあり、労働運動の歴史を感じさせる。建物自体は増築されたものという。館の入り口には観光案内のほかに『労働者階級調査2006年版』も置いてあった。
レーニン博物館には日本語の解説冊子があり、コピーの販売もある。それを読みながら展示を見た。第1部の展示はレーニンの歴史、第2部はレーニンとフィンランドのかかわりである。1989年の革命以後、各地のレーニン像は倒され、レーニン博物館もなくなってきたが、この地にレーニン博物館が存続した理由は、この建物でロシア社会民主労働党の会議がもたれたこと、レーニンはフィンランドに亡命したこと、この地が労働運動の拠点であり独立にむけての宣言を発した場であること、などであり、レーニンがフィンランドの独立を承認したという形でかれを評価できることによるのだろう。
展示を見ていても展示物事態についてはその内容がよくわからなかったのだが、受付であれこれと説明を求めると、館の担当者が現れ、フィンランドとレーニンの関わりについて説明をしてくれた。これでやっとそこに示された展示物の意味がわかった。
フィンランドとレーニンの展示では、フィンランドの独立を求める署名運動の絵、独立派有産階級の写真、1905タンペレコミューン・ゼネストの写真、1905年のタンペレでの赤い宣言文のビラ、労働運動活動者の写真、フィンランドとレーニンの滞在先、独立後の1918年のフィンランド内戦の攻防地図などが展示されていたのだった。
解説冊子によれば、パリコミューンの影響を受けて1905年11月にタンペレでゼネストによりコミューンが形成され、スト委員会が町を支配し、自由と独立を訴える赤い宣言書を出した。この運動の中で、12月にロシア社会民主労働党の会議がこの建物でおこなわれた。ここでレーニンとスターリンが初めて会った。1906年レーニンはヘルシンキのスミルノフの家に泊まった。1906年11月にはロシア社会民主労働党の会議が再びタンペレでもたれた。またその後ロシア社会民主労働党の兵士たちの会議もタンペレでもたれた。11月にタンペレの労働者代表たちとレーニンは会談し政権をとった際のフィンランドの独立を約束したという。ロシア社会民主労働党の会議は1907年にはフィンランドのコトカやヘルシンキで開かれているから、彼らにとってフィンランドは革命拠点のひとつであったわけである。1917年にもレーニンは1時期フィンランドに移動していた。冊子にはこのようなことが記されている。
館の説明によれば、スターリン時代にかかれた絵ではスターリンとレーニンの会見のとき、スターリンがレーニンを見下して話しているように書かれている。また、亡命フィンランド人の内、粛清された人もいるという。そういえば、アイノ・クーシネンの本に『革命の堕天使』があった。かの女はコミンテルンで活躍したクーシネンの妻であり、かれらはフィンランド人だった。
独立時の動きについて他の資料も加えて、ここでみておけば、ロシア革命によって1917年11月にはヘルシンキでゼネストになり、フィンランド社会民主党は8時間労働制、男女平等選挙権の地方自治への拡大などを立法した。12月等フィンランドは独立した。その独立にあたっては、フィンランド社会民主党のEサリーン、Eフットゥネン、Kマンネル、KHヴィーク、Eギュリング、Mトゥルキアら使節団がレーニンとあって交渉した。このような社会主義運動のたかまりの中での独立であったが、1918年1月ヘルシンキ革命内閣の設立によってフィンランドは赤白の内戦になったが、4月のヘルシンキ制圧によって革命は敗北した。この中で革命派は五千人という人々がロシアへと逃走した。タンペレでは500人以上が射殺された。赤軍捕虜は8万人にものぼった。そして555人に死刑が宣告され、半数はすぐに処刑された。亡命者はカレリアコミューンを形成した。両軍死者の追悼碑がヘルシンキにあるという。
このあとソ連が1939年にフィンランド侵略を行い、そのためフィンランドはドイツと手を組んで防衛戦をおこなったが、フィンランド社会主義者は亡命者の粛清をすすめるソ連側には立たなかった。のちソ連との講和によって、今度はドイツ軍との戦闘となり、ドイツによって北部のロバニエミ民衆の虐殺がおこなわれた。戦後、フィンランドはソ連に賠償を要求された。戦後は社会民主党の力が強く政権を担うことが多かった。1982年には社会民主党のコイヴィスト大統領が生まれた。
このような歴史があるから、1918年の評価がいまも歴史論争となるわけである。タンペレの町に行くことでやっとその経過がわかった。タンペレのフィレイソン工場跡地には労働者中央博物館がある。そこにはフィンランドの労働運動史の展示があり、その記述からこの国の社会変革を求めた労働運動の歴史を知ることができる。ちなみにヘルシンキの国立博物館では、20世紀についてはニュース映画が流されている程度で近代史についての記述は少ない。
タンペレまで急行で約2時間である。
タンペレは織物工場の跡地や旧労働者街が再開発されて観光地になり、芸術をテーマに観光都市化もすすんでいるが、地図を見ると南部には多くの工場がある。駅の東にはロシア風の古い教会があり、川を越えて少し歩くと「レーニン博物館」がタンペレ労働者会館の3階にあった。建物の外側には労働者像やハンマーも持つ手のレリーフなどがあり、労働運動の歴史を感じさせる。建物自体は増築されたものという。館の入り口には観光案内のほかに『労働者階級調査2006年版』も置いてあった。
レーニン博物館には日本語の解説冊子があり、コピーの販売もある。それを読みながら展示を見た。第1部の展示はレーニンの歴史、第2部はレーニンとフィンランドのかかわりである。1989年の革命以後、各地のレーニン像は倒され、レーニン博物館もなくなってきたが、この地にレーニン博物館が存続した理由は、この建物でロシア社会民主労働党の会議がもたれたこと、レーニンはフィンランドに亡命したこと、この地が労働運動の拠点であり独立にむけての宣言を発した場であること、などであり、レーニンがフィンランドの独立を承認したという形でかれを評価できることによるのだろう。
展示を見ていても展示物事態についてはその内容がよくわからなかったのだが、受付であれこれと説明を求めると、館の担当者が現れ、フィンランドとレーニンの関わりについて説明をしてくれた。これでやっとそこに示された展示物の意味がわかった。
フィンランドとレーニンの展示では、フィンランドの独立を求める署名運動の絵、独立派有産階級の写真、1905タンペレコミューン・ゼネストの写真、1905年のタンペレでの赤い宣言文のビラ、労働運動活動者の写真、フィンランドとレーニンの滞在先、独立後の1918年のフィンランド内戦の攻防地図などが展示されていたのだった。
解説冊子によれば、パリコミューンの影響を受けて1905年11月にタンペレでゼネストによりコミューンが形成され、スト委員会が町を支配し、自由と独立を訴える赤い宣言書を出した。この運動の中で、12月にロシア社会民主労働党の会議がこの建物でおこなわれた。ここでレーニンとスターリンが初めて会った。1906年レーニンはヘルシンキのスミルノフの家に泊まった。1906年11月にはロシア社会民主労働党の会議が再びタンペレでもたれた。またその後ロシア社会民主労働党の兵士たちの会議もタンペレでもたれた。11月にタンペレの労働者代表たちとレーニンは会談し政権をとった際のフィンランドの独立を約束したという。ロシア社会民主労働党の会議は1907年にはフィンランドのコトカやヘルシンキで開かれているから、彼らにとってフィンランドは革命拠点のひとつであったわけである。1917年にもレーニンは1時期フィンランドに移動していた。冊子にはこのようなことが記されている。
館の説明によれば、スターリン時代にかかれた絵ではスターリンとレーニンの会見のとき、スターリンがレーニンを見下して話しているように書かれている。また、亡命フィンランド人の内、粛清された人もいるという。そういえば、アイノ・クーシネンの本に『革命の堕天使』があった。かの女はコミンテルンで活躍したクーシネンの妻であり、かれらはフィンランド人だった。
独立時の動きについて他の資料も加えて、ここでみておけば、ロシア革命によって1917年11月にはヘルシンキでゼネストになり、フィンランド社会民主党は8時間労働制、男女平等選挙権の地方自治への拡大などを立法した。12月等フィンランドは独立した。その独立にあたっては、フィンランド社会民主党のEサリーン、Eフットゥネン、Kマンネル、KHヴィーク、Eギュリング、Mトゥルキアら使節団がレーニンとあって交渉した。このような社会主義運動のたかまりの中での独立であったが、1918年1月ヘルシンキ革命内閣の設立によってフィンランドは赤白の内戦になったが、4月のヘルシンキ制圧によって革命は敗北した。この中で革命派は五千人という人々がロシアへと逃走した。タンペレでは500人以上が射殺された。赤軍捕虜は8万人にものぼった。そして555人に死刑が宣告され、半数はすぐに処刑された。亡命者はカレリアコミューンを形成した。両軍死者の追悼碑がヘルシンキにあるという。
このあとソ連が1939年にフィンランド侵略を行い、そのためフィンランドはドイツと手を組んで防衛戦をおこなったが、フィンランド社会主義者は亡命者の粛清をすすめるソ連側には立たなかった。のちソ連との講和によって、今度はドイツ軍との戦闘となり、ドイツによって北部のロバニエミ民衆の虐殺がおこなわれた。戦後、フィンランドはソ連に賠償を要求された。戦後は社会民主党の力が強く政権を担うことが多かった。1982年には社会民主党のコイヴィスト大統領が生まれた。
このような歴史があるから、1918年の評価がいまも歴史論争となるわけである。タンペレの町に行くことでやっとその経過がわかった。タンペレのフィレイソン工場跡地には労働者中央博物館がある。そこにはフィンランドの労働運動史の展示があり、その記述からこの国の社会変革を求めた労働運動の歴史を知ることができる。ちなみにヘルシンキの国立博物館では、20世紀についてはニュース映画が流されている程度で近代史についての記述は少ない。
フィンランドといえば、森と湖の国だとよく言われますが、
激動の時代のど真ん中にいた国でもあるんだと言うことがわかりました。
激動の時代のど真ん中にいた国でもあるんだと言うことがわかりました。
Posted by つむぐ at
06:00
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