自分史2=沖縄と私その2
2009年01月10日

沖縄と私【その2】
歴史的な沖縄行きはこんな事件に遭遇してしまって、違う意味での印象が残ってしまい、こんなんではアカンと思い立って、その年の12月、連れ合いと二人でレンタカーを借り、沖縄本島を走り回りました。
そこで思ったことは、いままで日本から沖縄を見ていたということです。
沖縄から日本を見れば、私を含むヤマトゥンチュがいかに傲慢で、差別的なのかがよく理解できるようになりました。
それからはなにかとりつかれたように、沖縄に足を運びました。
その数、9年間に23回。
2000年が2回、2001年が4回、2002年が4回、2003年が2回、2004年が3回、2005年が3回、2006年が2回、2007年が2回、昨年も1回行っていて、合計23回。
辺野古や高江の座り込みをはじめ、伊江島に渡り、沖縄のガンジーとも言われ、非暴力で基地反対運動を引っ張ってきて、2002年3月、101歳で亡くなった阿波根昌鴻さんが建てた反戦平和資料館を訪れ、そこに展示してある遺品に涙が出て止まりませんでした。近くの伊江ビーチの透き通った海の色には心奪われました。
瀬底島にある瀬底ビーチでは、ほんの10分ほど足を投げ出していただけで大やけどを負ったこともありました。
滋賀沖縄県人会の○○さんの生まれ故郷である久米島では、○○さんの妹さんの案内で島内一周させて頂きました。
辺戸岬では祖国復帰闘争碑を眺め、沖縄の人たちが「復帰」にかけた思いと、しかし、その思いが裏切られていく現実を前にして、「わじわじ」している人々の思いをほんの少しだけ、ほんの一端をですが、知ることができました。
また、沖縄の人たちのエイサーに掛ける思いを肌で感じようと沖縄市の運動公園、昔の名前ではコザですが、ここで毎年開かれている全島エイサーまつりにも足を運び、エイサーに「かける」皆さんの意気込みに感動したり、またアルベルト城間さん率いるディアマンティスの演奏を間近で聴くことができました。
勝連半島から伸びる約5㎞にもおよぶ海中道路を渡り、途中の道の駅で買ったソフトクリームが止めていた車に戻るまでに瞬く間に溶けてしまったこともありました。
伊計島の大泊ビーチではマナーの悪い若者と口論になったり、浜比嘉島では島の端に立てられてあった「酢箱」の意味がわからずしばらく悩み続けたこともありました。
これは後でわかったことですが、ハブに噛まれたときの応急処置で、患部に酢を塗るといいと言われているそうです。
南部の新原ビーチからはグラスボートで沖に出て、サンゴの海の中を原色豊かな魚が泳いでいる姿をのぞき見ることができました。
さらに、今帰仁城や勝連城では城の造り、城壁が日本風ではなく、言い過ぎた言い方で言うと中国風というか、ミニ万里の長城だったんですね。それだけを見ても、ここが日本じゃないということがわかりました。
読谷村の残波岬では灯台の下の荒々しい波しぶきをかぶったり、糸満市真栄平の南北の塔では沖縄の人とアイヌの人との交流を知ることができ、イチャルパという先祖を供養する儀式にも参列することができました。
あと、ひめゆりの塔。ここの資料館をご覧になった方はおられますか?
ここの第四展示室「鎮魂」というのは、沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒の遺影というか写真が所狭しと飾ってあって、圧倒されてしまいます。
手前の第三展示室からここの第四展示室に入ろうとすると、いつも何かが押さえつけるように身動きができなくなってしまいます。で、涙が止めどなく落ちてきます。何度訪れても。
沖縄タイムスの新聞販売店主「解雇」を巡って知り合いになった那覇市在住の女性とは、それ以降、沖縄に行くたびにお会いしたり、食事をともにしたり、意見交換をしたりしています。
2002年10月、「沖縄の歴史と現実に学び、沖縄の諸問題の解決のために、ウチナーンチュとともに行動する中で、自分自身や社会のあり方を問い直そう」を合言葉に有志が「結の会」という集まりが発足しました。
この間、滋賀沖縄県人会の皆さんとともに、人権と平和を考えていこうと「月桃の花」「かんからさんしん」「花は土に咲く」「沖縄戦」などの映画会や沖縄で平和ガイドで活躍しておられる女性をお呼びしての講演会、シンガーソングライターを招いてのコンサートを開催するなど、取り組みをおこなってきました。
(つづく)
また、2004年からは、毎年一回、沖縄平和学習ツアーを実施しています。
沖縄の南部の戦跡巡りや沖縄戦体験者のお話を聞く会、巨大軍事基地の建設に反対する名護市辺野古地区を訪れるなどして、沖縄の歴史と現実を肌で感じるツアーに取り組んでいます。
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13:10
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こんな問題の立て方ってありなのかな
2009年01月10日
心ある人たちがイスラエルによるガザ攻撃に怒り、憤り、そして悲しんでいます。
この何日間で、1000人近い人びとが命を落とし、数千人の人が傷ついています。
今日、10日、大阪や京都などではガザ攻撃に抗議する集会やデモなどが予定されていますし、今や世界各地でイスラエルに抗議する行動が起こっています。
さて、ここからなんですが、チョットばかりひねくれ者の戯言をお聞きください。
イスラエルという国家の暴力によって、罪もない人びとが何百人単位で殺されていく。
紛れもない虐殺です。
この行為を絶対に許すことはできませんし、イスラエル、パレスチナから遠く離れた日本でも国家による住民虐殺に声を上げるのは人として当然のことです。
逆にこんな暴虐が目の前で繰り広げられているのに、何もしない、見て見ぬふりをする態度は住民虐殺に加担しているのと同じくらい思い十字架を背負うことになります。
大きな事はできないかもしれない。
でも、例えば、イスラエルという国家を支援している企業の製品は買わないというくらいはできると思います。
スタ●●ックスのコーヒーは飲まない、コ●●ーラのコーラは飲まない、マク●●ルドのハンバーガーは食べないといったことは一人からできるし、家族単位でできると思います。ぜひ、イスラエルを支える企業の製品不買運動を起こしましょうよ。
さて、次の問題です。
心ある人びとがイスラエルによるガザ住民虐殺に抗議の声を上げていることは既に承知のことと思いますが、肝炎患者と家族の立場から少し言わせてください。
全国に肝炎患者は350万人いると言われています。
一年間で40000人近い肝炎患者が命を落としています。
実に一日100人を超えています。
何回も私は言っていますが、毎日毎日100人を超える肝炎患者が命を落としているのです。
国と製薬企業による不誠実で不適切で不衛生な医療行為、医療行政、薬務行政によって、肝炎ウイルスに感染させられ、多くの患者が今も、この瞬間も病気の進行と迫り来る死の恐怖と闘っています。
イスラエルによるガザ住民虐殺に抗議されている人びとの中に、どれくらいの人びとが日本という国家によって日々肝炎患者が殺されていることに、虐殺されていることに、心の底から怒り、憤り、悲しんでいるのだろうかと思います。
イスラエルによるガザ住民虐殺に抗議されるのなら、同じくらいの怒り、憤りを持って、肝炎患者を虐殺する日本政府に抗議の声を上げてください。
タグ :肝炎
Posted by つむぐ at
10:16
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自分史1=新聞配達その2
2009年01月10日
23年間の新聞配達【その2】
ところが、自分がその現場に足を染め始めてからは驚きの連続だった。
いくつか新聞販売店は移ったりもしたが、基本的には次のような一日(?)のくり返しだった。
午前というか、まだ深夜の2時前には布団から這い出し、半開きの目をこすりながら販売店に向かう。
販売店の鍵を開け、本社からトラックで届けられる朝刊の荷受けをし、前日に準備していた折り込み広告を一部一部新聞に手早く挿入し、それを配達区域別に分け、次々と出勤してくる配達員に渡す。
配達員は夜明け前の真っ暗な街中をバイクのエンジン音と自分の靴音だけを響かせながら、読者が起きるまでに配達しなければとの気持ちを持って、一軒一軒配達していく。
朝刊の配達は地域によってバラツキはあるものの、だいたい6時くらいには終わる。
しかし、販売店の朝刊業務はそれで終わりではない。
読者からのクレーム(新聞が濡れている。新聞が届いていないなど)処理のために待機しなければならない。
やっとの思いで自宅に帰り朝食。そして、仮眠。
10時すぎには目を覚まし、月末月初であれば集金業務に。または、本社からのスケジュール表に基づいた勧誘業務員の案内。昼食を食べる時間もない。すぐに夕刊の準備。
配達を終えても一息ついただけで、集金業務や翌日の朝刊に入れる折り込み広告の丁合が待っている。
帰宅するのはだいたい20時。それから遅い夕食を流し込み、風呂に入り、何も考えることなく布団に潜り込む。
そしてまた、2時前に起床。
こんな生活パターンのくり返しだった。
心臓に穴が空いていて、良くこんな激務をこなしていたのか、ふり返ると不思議でならない。
慢性的な人手不足の現場で、雨の日も風の日も、灼熱の昼下がりも、凍てつく冬の朝も、体調を崩していても、そこに読者が待っているからと新聞を配り続けてきた。
休刊日があっても、それは本来の休日ではない。
社会保険や雇用保険にも加入せず、退職金もなく、時間外賃金、ボーナスなんて夢のまた夢。
新聞の紙面で労働基準法に違反した企業を問題にしている足もとで、その新聞を配達している労働者をボロ雑巾のように酷使している現実。
とある新聞がテレビのコマーシャルで盛んに「ジャーナリスト宣言」なんて叫んでいたが、ちゃんちゃらおかしい。
自分たちが作った新聞をどのような環境で配達しているのか、一度でも現場を見たことがあるのかと言いたい。
あたりまえのことだが、新聞は取材・編集する人たち、印刷する人たち、販売店に配送する人たち、読者に届ける人たち、読者を増やす人たちがいてこそ、一つの仕組みが成り立っている。
しかし、現実には、新聞本社で働いている人たちが「上」で、配達する人たちは「下」に見られている。
これは歴然とした事実で、とある結婚相談所に申し込んだ青年が職業欄に「新聞配達」と書いて受付を拒否された事例があった。
(つづく)
Posted by つむぐ at
05:51
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