自分史3=改めてC型肝炎闘病記その1
2009年01月17日

改めて、C型肝炎闘病記
1 C型慢性肝炎と告知される
2002年12月、職場の健康診断で、前年に引き続き、「肝機能障害あり」との診断を受け取った。
検査データを見ると確かに「GOT」や「GPT」といった、いわゆる肝機能の破壊状態を示す数値が基準より高くなっている。
「肝炎→アルコールの飲み過ぎ→自業自得」という図式で、いつもなら「しばらくの間、酒の量を減らしてみるか」くらいの対処でしかなかったと思う。
しかし、その直後、偶然にも弟がB型肝炎で緊急入院したのだ。知識のない私でも「B型肝炎は母子感染」だけは知っていたので、同じ母親から生まれた者として気になり始めていた。
連れ合いにも相談し、健康診断の流れの中で、肝炎ウィルスの検査を受けてみることにした。
で、結果はなんと、お~あたり。
「C型慢性肝炎」だと告知される。
「えっ、B型肝炎ではなく、C型肝炎なんですか?」
「それって、どう違うんですか?」
担当した医師は、簡単な資料(何かのコピーした、貧弱なものだった)を私に提示し、「治療を勧めます。費用はこれだけかかります」という程度の説明を受けたが、ますます闇の中に放り出されるような感情を抱いてしまった。
ひとつの病院では判断できないとの職場の同僚からの助言もあり、翌年5月、別の病院の消化器内科で同じ肝炎ウィルスの検査を受けた。(この時の医師がその後の主治医となった)。
結果は、またしてもお~あたり~。
「C型慢性肝炎で、検査するたびにウィルスの量が増えているという活動真っ最中の肝炎です。治療しましょう」と担当の医師。そして、C型肝炎の簡単な説明を受けたが、まだまだ緊張感は持っていなかった。
ところで、私には生まれつきの心臓疾患がある。
「先天性心室中隔欠損症」。俗に言う「心臓に穴が空いている」のだ。
健康診断などで聴診器を胸にあてた医師はその「心音」(トントンではなく、ザー・ザーという雑音)に必ずビックリする。
この心室中隔欠損、その大小によって違うが、大きな「穴(欠損孔)」では生後一歳までに心不全で死亡する確率が高いと言われている。
この症状が分かったのは幼稚園の頃、私が妙に疲れやすく、すぐに唇が紫色(チアノーゼ)に変色するので親が心配になり、ある大学病院で診てもらった。
そこで初めて、「心臓に穴が空いている」ことを知った。
当然、手術も勧められたが、当時(1960年)の心臓の手術代は、保険の対象外だったとかで、100万円もすると言われていた。
医師からは「このまま放っておくと40代半ばまでしか生きられません」とまで宣告されたが、貧しい家庭で、100万円もの高額の手術代は絶対に無理。親が下した結論は「手術はしない、できない」だった。
それ以外に患った病気と言えば、小学五年生の夏休みから中学二年生の終わりまで「敗血症」を患い、かかりつけの医院に二日に一度の間隔で通院していたことはあるが、手術や輸血はしたことがない。
それじゃ、なぜ?
(つづく)
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21:30
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辺野古新基地建設反対を訴え
2009年01月17日

今日17日は今年初めての『辺野古に基地はいらない滋賀行動』でした。
13時から14時半まで、草津駅でおこないました。
私たちの税金で人殺しの基地が造られようとしていることに絶対反対だとアピールしながらのビラ配りと署名集めをおこないました。
今日は10人が参加。
配ったビラはほぼ500枚。集まった署名150筆を『辺野古に基地は絶対つくらせない大阪行動』に託しました。
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16:09
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14年。
2009年01月17日
14年前、当時住んでいた瀬田でも揺れを感じた地震。寝ていた布団の足下にあった本棚が倒れていた。
その日は月曜日。当然、朝から仕事。
草津市内の運送会社で働いていた。
守山市内にある大手スーパーの配送センターから、主に湖西を担当して、宅配の仕事をこなしていた。
その守山配送センターに出勤途中にも余震があり、交差点で停車していても道路が波打っているのがわかったほどだ。
結果的に信じられない大災害になっていた。
19日、配送センターの定休日なので、連れ合いの実家(西宮)へ急遽行くことに。
甲子園口まで乗り、てくてくと歩いて実家へ。
しかし、目に入ってくる光景は悪夢を見ているようで表現のしようがない。
駅の前に立っていた)階建てのマンションも崩れている。
町がほこりっぽい。緊急の避難所に水を求めて並んでいる人たち。
実家は被害を受けていたが、人的な被害がなかっただけでも救いか。
連れ合いの同級生も亡くなっていたそうだ。後日、その同級生の崩壊した家に花を手向けに行った。
あれから14年。そのときから時間が止まっている人が大勢いる。
街は「復興」したけれど、人の心はなかなか元通りにならない。
大切な人を亡くした哀しみは癒えることがないだろう。
1・17 この日を忘れまじ。
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05:46
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自分史2=沖縄と私その7
2009年01月17日
あなたが面と向かって差別発言を受けたとき、あなたはどのような態度、行動に出ますか。
差別発言をした相手の顔を思いっきりぶん殴りますか、
諭すように「それはちょっと言い過ぎやで」と間違いを指摘しますか、
裁判所に名誉毀損で訴えますか、
あまりの発言にショックを受け、一人自分の手首に傷をつけますか、命を絶ちますか。
差別された人がどんな行動に出ようが、周りにいる私たちはその差別の重みについて考えるところから出発しないといけないんじゃないのでしょうか。差別された人の思いを共有するところからはじめなければならないと思います。
それを、知ったかぶりのような態度で、大上段に構えて「抗議の方法が間違っている」などという態度は、差別した側に身を置いた発言でしかないと思います。どうでしょうか。
その他には、体調を壊し、〇〇市内の病院に診察で訪れた沖縄出身の男性に対して、看護師が「沖縄の人って、日本語がお上手なんですね」と発言。あまりにも度はずれた言葉に、その男性は黙ってしまったそうです。40年もえわ年も前の話ではありません。ついこの間の話です。
〇〇町にある自動車工場の男子トイレの壁には「沖縄人は沖縄に帰れ」との落書きがあったそうです。
沖縄出身の女性は県内の男性と結婚する際、男性側の親が男性に「なんで日本人と結婚せんかったんや」と話しているのを聞いたということです。
という具合に、「ちゅらさん」以降の、いわゆる沖縄ブームのウラで、沖縄出身というだけで差別したり、偏見の目で見たりしている現実の姿があるのです。
沖縄の人たちが望んでもいないのに基地を押しつけ、そのことに何の痛みも感じない「本土」の私たち自身の中にはっきりとした差別意識があります。いやいや、「私はそんなことちょっとも思っていない」「沖縄の人とも仲がいいよ」と言われる方がいるかも知れません。いえ、そういう人の方が多いと思います。ですが、主観的にいくら否定されようと、ひとつの差別事例やいじめに対して、傍観的な立場にいること、見ていても、知っていてもなにも声を上げないことは、差別やいじめの側に加担していることと同じように、沖縄に基地を押しつけ、なにも声を上げないことは、すなわち傍観者であり、差別の側、基地を押しつけている側に身を置いていることに他なりません。
(つづく)
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01:17
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