不発弾からみる
2009年01月19日
東京や横浜で不発弾が見つかったって時はニュースで流れるけど、なんで、一週間に一度くらい不発弾処理をしている沖縄の現実は流れないんだろう。
Posted by つむぐ at
23:33
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飛騨高山にはすごい歴史があるんだよ。
2009年01月19日
私は飛騨の高山によく足を運んでいました。
それは、小京都、古い町並み、絢爛豪華な祭りなどに魅了されたのではなく、この地が歴史的な闘いの舞台だったから。
新聞販売店で働いていた頃、先輩からその事実を聞かされ、以来、違う意味で飛騨高山のファンになってしまいました。
(残念ながら、今は足が遠のいていますが。)
江戸時代265年を通じて、日本全国に2800件の農民一揆が発生しましたが、飛騨の国で起こった最大規模の一揆が「大原騒動」(1771~1788年)です。
この「大原騒動」は、三期(明和、安永、天明)に分かれていて、その中でも農民側が完全敗北した安永の大一揆(1772~1773年)は、10000人の農民が決起した歴史的な闘いでした。しかもその一揆を指導したのは当時17歳の青年だったのです。
1692(元禄5)年8月、幕府は旧領主の金森氏を出羽上ノ山(現在の山形県)に移し、飛騨の国を直轄領(天領)に組み入れます。これは、飛騨一帯の森林資源や地下資源の収奪にあったのです。以来、1868(慶応4)年1月までの177年間、幕府の任命する代官と称する地方官僚の手によって政治が行われていました。
問題の代官・大原彦四郎は1765(明和2)年12月、12代目の代官に任命されたのですが、当時の幕閣には田沼意次が老中の座にあり、権勢をほしいままにし、商業資本との結託を図って私財をむさぼり、公然と賄賂がおこなわれ、政治は極度に腐敗していました。
また、社会的には凶作が続き、いわゆる天明飢饉が起こったりしたのですが、幕府はこれに対する具体策を打ち出さず、ただ傍観するだけで、江戸や浪速など都市では下層の人民が蜂起して、富商や米穀商人に対する闘いを繰り広げていました。
こうした中で、永年にわたる経済政策の破綻から、幕府は財政危機に直面し、貨幣の改鋳や金持ちの町人からの献金などによって立て直しを図ろうとしたのですが、こうした消極的な方法では根本的な対策とは鳴らず、天領(直轄領)に対する検地による増税によって幕府の赤字経済を立て直すより他に方法がなかったのです。
こうした背景のもとに飛騨において、いわゆる「安永検地」が大原代官によって強行されました。
もともと飛騨の国は「人余って食の足らざる国」「下々の下国」と言われ、米の生産が低く、美濃や越中に食糧を依存していたほどの貧しい土地でした。
「安永検地」(1773年)は、1692(元禄5)年に大垣藩が幕府に命じられておこなった検地を上回る規模でおこなわれました。それは、従来よりも3~5割も年貢が増えることになるという、農民にとっては死活の問題でした。
そこで、農民は検地取りやめの署名運動を起こし、歎願書を作って提出するのですが、代官は門前払いで検地を続行していきます。
また、大垣藩や江戸勘定奉行へも陳情するのですが、取り上げられず、ついに農民代表6名が江戸表で老中松平守の登城を待ち伏せして直訴をやるのですが、逆に捕らえられ処刑(打首)され、高山の桐生河原にさらされました。
幕府からの連絡を受けた大原代官は、村々の代表(村名主)を代官所に呼びつけ、検地を認め、不服は申し立てないという誓約と調印を強制したのでした。
このような事態に対して「調印絶対拒否」「直訴の6名の死を無駄にするな」と立ち上がったのが、まだ17歳の本郷村の善九郎を先頭にした10ヵ村15人の農民でした。
善九郎たちはまず地元で小集会を開き、この集会に刺激された集会が飛騨一帯の村々で開かれていきます。
そして、1773(安永2)年9月23日、大野郡宮村にある一宮水無神社一帯に大野郡、益田郡、吉城郡の三郡283ヵ村から10000人の農民が集まる大集会へと結実していきます。
善九郎たちは高山の町に対する津留め(物資封鎖)や代官に対して「問題解決まで年貢は納めない」「入牢者に拷問を加えるな」などの要求を突きつけていくのですが、大原代官は周辺の藩(郡上八幡、苗木、大垣、富山、岩村など)に出兵支援要請を出します。
そして、ついに、11月14日、1600名の武装兵によって水無神社に襲撃が加えられ、9月23日から続いていた10000人の農民集会は壊滅させられます。
非武装の農民に対して、鉄砲、刀槍を持って殺傷・鎮圧したのは前代未聞の出来事でした。十手で頭を打ち割り、刀で袈裟懸けに切りつけ、服や膝を突き通し、逃げる者には鉄砲を発射。即死者3名。負傷者300名。縛り付け125名。
善九郎も11月29日、捕らわれ、翌年の12月5日、処刑(打首獄門)されました。
この一揆は、善九郎を含む13名が死刑、流罪14名など農民側の完全敗北で幕を閉じましたが、彼らの犠牲が幕閣の中に田沼政治に対する反感を培い、寛政の改革の素地になったことは忘れてはならないと思います。
善九郎が生まれた本郷村(現・高山市上宝町本郷)では、235年以上経過した今でも「義民」として語り継がれていて、生家が民俗資料館になっています。その彼が眠る本覚寺(同)、10000人の農民が集結した一宮水無神社(高山市一の宮町)、多くの農民が処刑された萬人講(高山市桐生町)などを訪れると、当時の農民の闘いのすごさと、そして無念さが伝わってくるような感じがします。と同時に、自分の意志や行動の弱さや甘さが鋭く突きつけられているような気もします。
自分のことしか考えないのは論外にしても、自分のことから物事を考えたり、行動するのではなく、農民全体の幸せのために行動するという思想は素晴らしいものがあります。 私も善九郎のように、否、善九郎に一歩でも近づけるように自分自身を鍛えていきたいと思います。
さて、次、高山に行けるのはいつの日だろうか。
それは、小京都、古い町並み、絢爛豪華な祭りなどに魅了されたのではなく、この地が歴史的な闘いの舞台だったから。
新聞販売店で働いていた頃、先輩からその事実を聞かされ、以来、違う意味で飛騨高山のファンになってしまいました。
(残念ながら、今は足が遠のいていますが。)
江戸時代265年を通じて、日本全国に2800件の農民一揆が発生しましたが、飛騨の国で起こった最大規模の一揆が「大原騒動」(1771~1788年)です。
この「大原騒動」は、三期(明和、安永、天明)に分かれていて、その中でも農民側が完全敗北した安永の大一揆(1772~1773年)は、10000人の農民が決起した歴史的な闘いでした。しかもその一揆を指導したのは当時17歳の青年だったのです。
1692(元禄5)年8月、幕府は旧領主の金森氏を出羽上ノ山(現在の山形県)に移し、飛騨の国を直轄領(天領)に組み入れます。これは、飛騨一帯の森林資源や地下資源の収奪にあったのです。以来、1868(慶応4)年1月までの177年間、幕府の任命する代官と称する地方官僚の手によって政治が行われていました。
問題の代官・大原彦四郎は1765(明和2)年12月、12代目の代官に任命されたのですが、当時の幕閣には田沼意次が老中の座にあり、権勢をほしいままにし、商業資本との結託を図って私財をむさぼり、公然と賄賂がおこなわれ、政治は極度に腐敗していました。
また、社会的には凶作が続き、いわゆる天明飢饉が起こったりしたのですが、幕府はこれに対する具体策を打ち出さず、ただ傍観するだけで、江戸や浪速など都市では下層の人民が蜂起して、富商や米穀商人に対する闘いを繰り広げていました。
こうした中で、永年にわたる経済政策の破綻から、幕府は財政危機に直面し、貨幣の改鋳や金持ちの町人からの献金などによって立て直しを図ろうとしたのですが、こうした消極的な方法では根本的な対策とは鳴らず、天領(直轄領)に対する検地による増税によって幕府の赤字経済を立て直すより他に方法がなかったのです。
こうした背景のもとに飛騨において、いわゆる「安永検地」が大原代官によって強行されました。
もともと飛騨の国は「人余って食の足らざる国」「下々の下国」と言われ、米の生産が低く、美濃や越中に食糧を依存していたほどの貧しい土地でした。
「安永検地」(1773年)は、1692(元禄5)年に大垣藩が幕府に命じられておこなった検地を上回る規模でおこなわれました。それは、従来よりも3~5割も年貢が増えることになるという、農民にとっては死活の問題でした。
そこで、農民は検地取りやめの署名運動を起こし、歎願書を作って提出するのですが、代官は門前払いで検地を続行していきます。
また、大垣藩や江戸勘定奉行へも陳情するのですが、取り上げられず、ついに農民代表6名が江戸表で老中松平守の登城を待ち伏せして直訴をやるのですが、逆に捕らえられ処刑(打首)され、高山の桐生河原にさらされました。
幕府からの連絡を受けた大原代官は、村々の代表(村名主)を代官所に呼びつけ、検地を認め、不服は申し立てないという誓約と調印を強制したのでした。
このような事態に対して「調印絶対拒否」「直訴の6名の死を無駄にするな」と立ち上がったのが、まだ17歳の本郷村の善九郎を先頭にした10ヵ村15人の農民でした。
善九郎たちはまず地元で小集会を開き、この集会に刺激された集会が飛騨一帯の村々で開かれていきます。
そして、1773(安永2)年9月23日、大野郡宮村にある一宮水無神社一帯に大野郡、益田郡、吉城郡の三郡283ヵ村から10000人の農民が集まる大集会へと結実していきます。
善九郎たちは高山の町に対する津留め(物資封鎖)や代官に対して「問題解決まで年貢は納めない」「入牢者に拷問を加えるな」などの要求を突きつけていくのですが、大原代官は周辺の藩(郡上八幡、苗木、大垣、富山、岩村など)に出兵支援要請を出します。
そして、ついに、11月14日、1600名の武装兵によって水無神社に襲撃が加えられ、9月23日から続いていた10000人の農民集会は壊滅させられます。
非武装の農民に対して、鉄砲、刀槍を持って殺傷・鎮圧したのは前代未聞の出来事でした。十手で頭を打ち割り、刀で袈裟懸けに切りつけ、服や膝を突き通し、逃げる者には鉄砲を発射。即死者3名。負傷者300名。縛り付け125名。
善九郎も11月29日、捕らわれ、翌年の12月5日、処刑(打首獄門)されました。
この一揆は、善九郎を含む13名が死刑、流罪14名など農民側の完全敗北で幕を閉じましたが、彼らの犠牲が幕閣の中に田沼政治に対する反感を培い、寛政の改革の素地になったことは忘れてはならないと思います。
善九郎が生まれた本郷村(現・高山市上宝町本郷)では、235年以上経過した今でも「義民」として語り継がれていて、生家が民俗資料館になっています。その彼が眠る本覚寺(同)、10000人の農民が集結した一宮水無神社(高山市一の宮町)、多くの農民が処刑された萬人講(高山市桐生町)などを訪れると、当時の農民の闘いのすごさと、そして無念さが伝わってくるような感じがします。と同時に、自分の意志や行動の弱さや甘さが鋭く突きつけられているような気もします。
自分のことしか考えないのは論外にしても、自分のことから物事を考えたり、行動するのではなく、農民全体の幸せのために行動するという思想は素晴らしいものがあります。 私も善九郎のように、否、善九郎に一歩でも近づけるように自分自身を鍛えていきたいと思います。
さて、次、高山に行けるのはいつの日だろうか。
Posted by つむぐ at
21:00
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自分史3=改めてC型肝炎闘病記その2
2009年01月19日
2 どうも大変な病気らしい
だから、「C型慢性肝炎」だと言われても思い当たる原因が分からなかった。
しだいに、気になりはじめた。書店でC型肝炎に関係する本を何冊か買い求めた。
インターネットでも調べてみた。
C型肝炎患者のホームページやブログにも行き着き、読みあさった。
それによると、おもに出産時や外科手術の際の出血を止めるための止血剤(フィブリノゲンなど)が原因であったり、私の年代なら、小学校で実施された予防接種の際の注射器の連続使用(まわし打ち)が原因であったり、輸血であったり、不衛生な穴開けによるピアス、入れ墨も‥‥。
そして、このC型肝炎は自覚症状がないために、気がつかないまま放置しておくと肝硬変、肝ガンへと進行して死んでしまう‥‥。
恐ろしい言葉が、文字がこれでもかこれでもかと並んでいた。
担当の医師にたずねた。
「私は何が原因なんですか」と。
質問に対する医師の答えは
「消去法で考えると予防接種の際の注射器のまわし打ちだろうけど、これだという原因は分からない。だが、今は原因を突きとめるために時間を費やすより、検査するたびにウィルスの量が多くなっている活動真っ最中の肝炎をまず治療することが第一課題」
「このまま放置しておけば、間違いなく肝硬変になり、肝ガンへ進行する。あと10年の寿命は保証するけれど。その後は・・・」
「な、な、なんだと~」
問答無用とも言える言葉だった。
しかも、治療に入ると副作用で発熱、悪寒、頭痛、倦怠感、筋肉・関節痛などインフルエンザのような症状が出る。
うつ病、けいれん、意識障害、知覚障害もでる。血圧低下、発疹、かゆみ。白血球が減り貧血に。血小板が減り止血しにくくなる。
食欲不振になったり、頭髪が抜けるとも。さらに、治療したからといって、完全に治るとは限らない。
完治する確率は20~30%。医療費もワンクール(一年)で最低100万円はかかるとも・・・。
う~ん。唸るしかなかった。
3 肝生検で
一ヶ月ほど悩んで末、その年の8月26日に入院。
そして、翌27日、肝生検をやった。
肝生検というのは、細く長い針を皮膚の表面から直接肝臓に刺して、肝臓の組織を採取し、顕微鏡で肝臓の状態を調べる検査。
ベッドに寝かされたまま治療室(処置室)に運ばれ、右手を頭の下に置いて、少し左に傾く。エコーで場所を確認して局部麻酔。そして、鋭利な刃物で身体を切られるような感触。これからというときに血圧が(上が70)低下。一時中断。10分後、少し回復したので一気に検査を実施。身体の中に針が入ってくるのが分かる。「バシッ」という鈍い音で終了。
「出血もなく、きれいですよ」と執刀医。
それにしてもその後に腹に撒いた「圧迫止血帯」はキツイ。身体を動かせないために尿瓶で何度も排尿。夕食が配膳されてくるが、全く身動きできないので、仕事を終えて見舞に来てくれていた連れ合いに食べさせてもらった。朝から絶食だったので、このときの食事のうまかったこと。むしゃぶりつくという表現がぴったり。
翌日午前10時前、19時間ぶりに圧迫止血帯が解かれ、午後1時過ぎには自力でトイレにも行けるようになった。
その日の夕方、担当の看護師から「肝生検の際、血圧が異常に下がって、手足が冷たくなっていた。よくご無事で生還されましたね」と冗談とも本気ともとれる言葉が…。
こうやって、肝炎の治療に入る前の検査が終わった。
(つづく)
Posted by つむぐ at
01:19
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